ごくごく普通のこと

 

 

 日本で会社勤めをしていた頃、帰りの電車の窓から見る街の風景が好きだった。

闇の中にポツリ、ポツリと浮かぶ街灯、大きなマンションの行儀良く並んだ窓明かり、

妙に安心感を与えてくれた。ひと駅ひと駅通りすぎる間に、幾百、幾千もの家があり、

灯りの色は似ていても、一つ一つ違った家族が生を営んでいる。普通の人々が普通の

暮らしを。それが、暖かく心強かった。

 

 広辞苑を開くと「普通」は「一般、通常」と出ている。同類語では「月並み、人並み、

ありきたり…」。つまりは、隣近所と同じであれば普通と言われるということか。

皆と少しでも違った面を見せると、それはもう普通ではなくなり「おかしい」ことに

なってしまう。「普通」であることのいかに大事なことか。日本の社会を見ると良く

分かる。同じような色で同じような格好、しぐさ、大きな一つの傘の下に隠れていれば、

何の心配も要らなかった。

 

 このアメリカでは、皆と同じという発想は無い。皆と違ったところから出発し、皆と

違うことを主張していく。ま、異人種がこれだけ集まり合えば、同じことなどある

訳ない。皆と違うことがごく当たり前のこととして受け止められる社会なのだ。違う

ことを主張しあい、譲ることが少ない。好き勝手に生きていっているように見える。

だが、たまにこの「好き勝手」に疲れを感じるようになってしまった。一見、個性を

大事にし尊重しているのだが、ただのわがままじゃないか、なんて。

 

 神戸の人々の暮らしが一瞬にして崩れた時。直後の人々の頑張りを外国人記者は

「人は一流、政府は二流」と称したそうな。普通で無くなった状態にそれまで無個性

を指摘されていた普通だった人々の個性が輝き出した。普通の中にタダモノではない

何かが隠されている。普通という仮面の下に必死で主張する個性がある。日本人って

世界一個性的民族なのかもしれない、などと感じている。

 

 電車の窓から見る街の、一瞬にして行きすぎる風景の中に、毎日懸命に歩む普通の

人生がある。それを思うと、普通の人々がたまらなくいとおしくなってくる。また、

日本へ帰って、足早に通りすぎる人の波に身を置いてみたいと無性に思う。(aki3)