どこで死にたい?と聞かれたら、何と答えるだろうか。基本的には、

死ぬのはどこで死んでも同じ――なのだが、最近ちょっと違ってきている。

やっぱり、人生で後に残る時間のほうが少なくなってきたせいもある

だろうか。できたら、生まれたところで、そしてホントにできるなら、

育った家で死にたいなと、ちょっぴり思う。

 この思いはナンセンスだということ、殆ど実現不可能だということも

分かっているつもりだ。日本を出て20年以上。実家だってそうそう

残っているものじゃない。婚家にしたって同じこと。日常がない処へ

どうやって帰れるのだろう。普通、日常のある場所が結局は終の

棲家となるのなら、私にとってはアメリカがそうなのだ。だが…。

 何となく日本を出て、何となくアメリカに住み着いて子供を生み、

何となく生きている私のような日本人は周りにたくさんいる。近頃彼らは、

「市民権」を取り始めている。一番の理由は、もう日本へ帰らないだろう

から。そして、移民歓迎の国で、移民でもpermanent residence、つまり

永住手続きをしていれば年金は下りていたというこれまでの状況から

一変、最近になって年金の財源が減り始め、ひょっとしたら「移民には

年金はあげません」てな法律ができるのではないかという危惧が

でてきたからだ。市民になるには、いくらか払って試験(大統領の

名前を聞くというような、一般常識)を受け、合格すれば(アンチョコ

もあるし大体は合格できるようだ)晴れてアメリカ市民。

 別に日本国民じゃなくなるからって、またアメリカ市民になるからって

どうってことはない。日本やアメリカに対する忠誠心があるわけじゃない。

だが、まだまだ市民権を取るのは躊躇している。これは、どんなところ

から来る思いだろう。国としての日本やアメリカという現実的なものじゃなく、

生まれ育ったその空気、それがたまたま日本であったのだが、人間として

初めて肌に感じた空気が忘れられないのかもしれない。それは私の

根っこのところに深く潜み、決して消えないのものなのかもしれない。

 1年に1度だが、実家に帰って何をするでもなく親のそばで1日を過ごす。

その時間、私は本当にほっとしているのだ。ちょうど、犬が可愛がって

くれている飼い主の前で、仰向けにおなかをさらけ出してだらしなく

寝ているような、そんな安心感。20年も過ごしてはいても、アメリカでは

1度たりとも味わえなかったその安心感。家族があっても常に違和感を

持ち、自分の居場所とは決して思えないその国を出て、きっと死ぬ時に

私は日本へ帰っていくのだろうなと思う。(aki3)