「してやった」の論理

 

夫婦ゲンカを始めると、究極のところでダンナの口から「一体、誰に食わせて

もらってると思ってんだ」というセリフが飛び出す。そういうケースをよく聞く。

この一言でプツンきてしまう奥サン方も多い。こっちに理屈や言い分があっても、

現実には相手の言う通りだから「ウッ、ウッ」と詰まっちゃうのよね――友人が

悔しがる。理屈や現実はともかく、「してやった」という嵩にかかった言い方が

カチンとくるのよ、友人はこうも言う。

「してやってる」と言われるとつい「ありがとうごぜぇますだ。お代官サマ」と

ひれ伏したくなるのは何だろう。悲しい庶民の性か。「してもらってる」という

思いにとらわれたら最後、言いたいことも飲み込んでしまうのかもしれない。

「冗談じゃないわよ。こっちだって食事の支度から洗濯までしてやってんのよ。

対等、対等」。近頃の奥サマ方は黙っちゃいない。そうなると、お互い「して

やった」の応酬で行きつくところは修羅場。

だが、夫婦どちらもいつもとんがっているわけではない。調子がよけりゃ

「ホント。いつも感謝してるのよ」。妻の柔らかい雰囲気が伝われば夫だって

「君や子供のために頑張るよ」、家族愛こそ無償の愛とか何とかと、素直に思う

場合だって稀にあるかもしれない。厄介なのは、そういう素直さが長続きしない

ことだが。

無償の行為とは難しいものだ。見かえりを求めない、報われることを期待しない。

「してやった」とは無縁の世界だということ。私のような凡人は最初の一行で

挫折だ。勿論、しょっちゅう見返りを期待するわけではないが「してあげる

ばかりもつまらない」の論理に時々はまっている。

相手が子供となるとなおさらだ。「育ててやってんだから、しっかり老後の

面倒見ろよ」。呪文のように繰り返し、脅迫している。向こうは「生まれて

やったんだから感謝しろよ」。目がそう言っている。(aki3)