スッピン

 


  どうもここ(LA)に暮らしていると、気が緩む。ジャージー、サンダルばきの

まま買い物に出る。それも、スッピンで。この傾向は年と共にひどくなるから、

つまりはこの土地が原因ではないようだ。ただのオバサン化現象だろう。そのクセを

引きずって、日本に里帰りしても同じように外出。途中ではっと我に帰り、「いけない、

いけない、せめて口紅でも」と、慌てて戻ることも何度か。

   化粧というのは、人類史が始まったと同じくらいから見られたというから、歴史的

重みはある。所によって宗教的などの意味はあったが、ほとんどがやはりきれいに見せたい

という願いかららしく、人間の思いなんていつだって同じようだ。

 「美を追求しなくなったら、女辞めちゃいなさいよ」と過激な友人もいる。だが、

ある友人の言葉が今になって妙に引っ掛かる。「化粧をしていると、自分にシャをかけ

られる。とても、素のままの自分では人と相対せない。自分を好きになれないから」。

今はどうか分からないが、若い時代、変にコンプレックスを持っている人だった。いや、

若いからこそ、コンプレックスに固まってしまうのだろうか。

  化粧は一種の仮面かもしれない。スッピンの自分を隠す仮面。この世の中、どれだけ

の人間が素のままの自分をさらして生きているだろうか。特に今という時代、それは難しい

要求だ。人は様々な自分を持つ。いい自分、悪い自分。醜い面、清らかな面。闇もあれば

光もある。そういう自分を仮面で覆い隠しておく。それはそれでいいはずだ。スッピン

という無防備な状態は傷を負いやすく、他人にも負わせやすい。厚塗りの仮面で表情を

あいまいにすること、それはある意味での優しさではないか。全てをさらけ出すばかり

が、いいわけではあるまい。

  さすがに人と会うときは、気合いを入れて化粧していく。そうでないと、見られた

もんじゃない。だが、その「気合い入り化粧」も大分ディテールにこだわらなくなって

しまった。それは、わたしが年を重ねて、自分の素に自信をもてるようになったわけ

では決してなく、ただ単にしち面倒臭くなった末の、女を捨てる初めの一歩でしかない

ようだ。(aki3)